スキマダイアリ

インドネシアでさまようリーマン

史上最大の翼竜

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ちなみに史上最大の魚「リードシクティス」
http://www.dinosaur.net.cn/_Sea_Monsters/seamonsterall.JPG
川崎悟司イラスト集・リードシクティス(Leedsichthys)

どうでもいいけど「Hatzegotpteryx」ってスペルミスじゃないか?ネットでは「Hatzegopteryx」の表記の方が多いけど。しかし大きいものって見てるだけでゾクゾクする。特に巨大な生物の場合は、そのスケールのでかい体の中を想像するだけで興奮してしまう。自分の腕ほどある血管の中をすさまじいスピードで血液が駆け巡る様や、巨大な心臓があげるうなり。そのサイズから無骨なイメージを抱いてしまうけど、でもやっぱり生き物だからそれを裏切るような精巧な作りで動いているのだろう・・・。そのギャップにも魅せられる。

よくスケールの大きいものを見ると、自分の小ささを思い知らされる―という話を聞く。しかしそれは真実なのだろうか?高山に登っている際に、ふっと下を見下ろしてその切り立った山肌であったり、歩いてきた稜線の長さ、山自体の大きさに圧倒されることがある。それが登山の魅力の一つであり、そのスケールのでかさ故に自分の抱えている悩みや自分自身が対照的に小さく見え、気が楽になるという。しかしそれらの感情が、でかいものを見たときに、最初に心の中に沸いてくるものかと言えば答えは「」じゃないだろか。くらくらするような大きさの山、岩壁をばっと見た時に、そんな自分の卑小さを対照的に意識する余裕は無い。それではこの時、どういう心の動きが起きているのか。

その答えは「同一化」だ!つまり、自分の想像を遥かに超える巨大なものを見た時、人は自分をそれに瞬間的に重ね合わせる。例えばある人間が4000メートルの山の大きさに圧倒された瞬間、そいつの脳内では自分が4000メートル級の巨人になっている。なぜこういうことが起きるのか。それはおそらく「感覚が引きずられる」からじゃないだろうか。普通人間が何かモノを認識するときは、あくまで自分の常識の範囲内で捉える。「これだったらこれぐらいのもんだろう」「こういう理由でこうなってるんだろう」「こういう味だろう」など。つまり対象物を自分の常識、感覚という器に取り込んで「理解」するわけだ。その際、実際の対象物のメタフォリカル(隠喩的)なサイズは自由に伸縮させられる。自分が理解できるサイズ、自分の感覚の「手が届く」モノにまでダウンサイジングされる(アップサイズもしかり)。


この「対象物のダウンサイジング」は大抵の場合うまくいく。ほとんどのものは、自分の器の中に収まるから。しかし対象物が、その器に納まりきらなかった場合。いきなり想定外とも言える、スケールのでかいものが視界に飛び込んできた場合!最初、脳はその「でかいもの」を自分の認識の器に入れようとする。巨大なアルプスを自分の箱庭の中に取り込もうとするのだ。だが、あまりの大きさに、ダウンサイジングはあっけなく失敗する!
しかしそれでも脳はひたすら「でかいもの」を認識しようと演算処理し続ける。そこで普段起きないことが起きる。その「でかいもの」のダウンサイジングが行なわれないまま、感覚の器が対象物を包括する!山のあまりの大きさに、普段はたかが知れている大きさの「認識」が引きずられ、引き伸ばされて、そのでかい山全体を、その大きさのまま包むことになる。


その結果。一瞬では認識すら出来ないような大きさを、器に内包し、人の感覚は刹那的にその肉体のサイズを遥かに超越する。4000メートルの山を見れば、感覚は暴走し、その器は4千メートルの大男にまで引き伸ばされる。あまりにも一瞬で巨大化された全身に、全身に知覚が行き渡らず、通常は軽いめまいを感じる。このふらつきこそが、あまりにでかいものを見た時の、あの「くらくら」なのだ!超巨大な体の、頭の先からつま先まで、メタフォリカルな心臓が隠喩的な血液を一気に送り込もうとするがゆえの「貧血」こそがフラツキの正体だったのだ。

もちろん、それは一瞬のことで、脳はまたたくまに正常に戻る。処理は終わり、巨大な山とてダウンサイジングが行なわれ、引きずられて引き伸ばされた感覚は元の大きさに戻る。そして何事もなかったのように「おっきーねー^^」「自分の悩みがちっぽけに思えてきちゃった☆」のようにいつもの感覚の器に見合った大きさの感想を叩き出す。悩みは小さくなったのではなく、単にそのショックで一時的に追いやられただけだ。その証拠に五分もすれば、また「なんとかしてM香とヤれねえかな・・・」「そういやアイツに70円貸してたな…」といつもの悩みが戻ってくる。


しかし意識はしていなくても、感覚はその器を超サイズで引き伸ばされたことをまだ覚えている。巨大な槌で内側から思いっきり押し広げられた感覚を忘れられない。そして「見てしまった」人間は本能的にデカいものを畏れ、しかし求め続けるのだ。そして女が「こんなおっきいの入ンない…」と言いつつも、うっとりした眼差しでそれを見るのは、その女の認識が男根に「引きずら」れ、瞬間的に男根とシンクロナイズしているからなのだ。超スケールの対象物、それに引きずられる感覚、同一化、これこそがヒトが大きいものに惹かれる理由だった!



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マレーシア旅行中、ユースホステルの本棚で村上春樹の『海辺のカフカ(下巻)』を見つけた。下巻しかなかったが、他にすることもなかったので読み進めたがこれがもうおぞましい。
(ここで一つ正直に言わなければなりません。私、小川義男の『あらすじで読む日本の名著』と村上春樹のこの『海辺のカフカ』が大嫌いです。とくに後者については史上最低のクズ本だと思っております。何の必然性というか脈絡もなく叙述的なセリフをはきまくる登場人物たち。村上春樹の小説に出る為には、それぞれ必ず何かを悟ってないといけないらしい。全員老人か。独特なセリフや80年代のいわゆる「ハチャメチャSF」を思い出させる展開で、日常的な風景を日常から乖離させようとしているのか・・・。意図は本人に聞いてみないと分からないが、もしそうだとしたら「わざとらしさ」が鼻につく、としかいいようがないですね。この大ベストセラーが私のイヤミ程度でどうなるわけでもありませんが、これだけはいつか言ってやろうとヨコシマな気持ちを抱いていました。)

その中で「メタフォリカル」という単語が酷使されていた。あまりにもむかっ腹が立ったので、ちくしょう自分でも『メタフォリカル』って使ってやれ、と思ってこの文章を書きました。それだけなんです・・・。メタフォリカルの意味はよくわかりません・・・。